【初等部卒業生代表 答辞2】
今日、私は、補習校での六年間の最終ゴールである卒業式をむかえることができ、大変うれしく思います。
私は、アメリカで生まれ、アメリカの学校に通って英語を話し、家では日本語を話すという生活をしています。アメリカに住んでいても、日本人なら日本語ができるようになってほしいという両親の考えで、小学校から補習校に通いはじめました。
先日、母と一緒に補習校で勉強した小学校一年生から五年生までのファイルと教科書をなつかしい思いで、みてみました。
一年生の四月、「はじめてかいたじぶんのなまえ」から勉強がスタートしました。大好きな、「大きなかぶ」のお話、みんなで元気な声を出して読みました。その時書いた絵日記は、大きなかぶのようなひらがなばかりで書かれています。
二年生では、英語で親しんでいた「スイミー」や「かえるとがま君の手紙」が国語の教科書にでてきて、宿題の本読みも楽しく、毎週赤ペンで大きな花丸がついています。心に残った悲しい「スーホーの白い馬」の物語を勉強したのもこの時です。そして、自分でも「ぽんたとぴょんた」というお話を作って本にしました。また、四こまマンガの宿題も大好きでした。
三年生では、ひとつ、思い出に残る授業がありました。それは、「ちいちゃんのかげおくり」という日本の戦争時代のお話を勉強している時、クラスメートのおばあさんがクラスにきてくださって、戦争体験を話してくれました。そして、みんなが、そのおばあさんにいろいろ質問しました。わたしは、戦争時代には、卵がごちそうだということに驚いたと、その時書いています。
四年生では、漢字辞典の使い方を習いはじめ、毎週辞典を使う宿題がでました。私は、意味はよくわからないけれど、できるだけむずかしい熟語を選びだすのが結構好きでした。新聞のことを勉強した時は、グループの友達のイニシアルをとってゆりゆり新聞というのを作ったり、自分の新聞を夜中までかかって仕上げたことを覚えています。夏休み、「白い帽子」の物語を毎日、二週間声を出して読む宿題があったのですが、がんばってやりとおしました。また、クラスのお友達と、バザーの時にいっしょにお買い物をしたのがとても楽しい思い出です。
こうして楽しくすぎた三、四年生でしたが、五年生になると今度は現地校の宿題が増えはじめ、お友達が一週間が終わったと喜んでいる金曜日にプレイデイトをことわって、補習校の宿題を終わらせなくてはならないのがとてもつらくなりました。また、国語では急にむずかしい漢字が増えだし、教科書がスムーズに読めなくなるし、漢字の意味がよくわからないしで、だんだん補習校に通うのがいやになってきました。そして、親には、自分はもう日本語が話せるから補習校をやめたいといって困らせました。
でも、日本語ができるというのは、聞けて、話せて、読めて、書けるということで、それができるようになるためには補習校に通い続けることだよ、後できっとよかったと思う日がくるからと家族に言われ、とにかくがんばることにしました。
そして、最終学年の六年生。学習内容もどんどんこくなりました。広島原爆ドームの話、宮沢賢治の、「やまなし」は理解がむずかしい作品でしたが、朗読会で発表するために、クラス全員で読みの練習を重ね、下級生の前で発表しました。また、四文字熟語の勉強、日本語でのガイドブック作り、日本語でスピーチの発表、最後は、日本の古い劇である狂言を、クラス全員で、卒業生を送る会でやりました。本当に、どれもこれも補習校に通わなければできない勉強をしました。
六年間をこうやって振り返ってみると、補習校でやってきたことは、すべてわたしの宝となっていることに気がつきました。この宝をあたえてくれた補習校に感謝します。そして、補習校に通いきったことはわたしの誇りにしていいのだと思いました。
最後に、校長先生、教頭先生、そして宿題に必ずコメントを書いてはげましてくださったすべての担任の先生方、一緒にがんばったクラスのお友達、ありがとうございました。また、毎週学校まで連れてきてくれたお父さん、宿題を手伝ってくれたお母さんありがとう。そして、十二年間補習校に通って、私が補習校をやめないようにはげましてくれ、今日一緒に卒業するお姉さん、卒業おめでとう。
わたしの、日本語の勉強はこれからも続きます。